グラスワンダー──常識を塗り替えた“怪物”の全軌跡
1. 冬のケンタッキーに響いた産声
1995年2月18日、米国ケンタッキー州レキシントン近郊。
まだ雪解けの残る早春の空気は、頬に軽く痛みを感じるほど冷たかった。
放牧地に立ちこめる朝靄が、ゆっくりと陽光に溶けていく。
その日、クリアクリークファームの厩舎で、1頭の栗毛の牡馬が産声を上げた。
父は英国ダービー3着馬で米国でも種牡馬として成功したシルヴァーホーク(Silver Hawk)、母はアメリカンアンバー(Ameriflora)。
母方には北米のスピード血統が脈打ち、芝中距離に適性を示すであろう配合。
仔馬は立ち上がると、まだ覚束ない足取りで母の腹下に顔をもぐりこませた。
その額の流星が、曇天の下でもかすかに輝いて見えたという。
名は「Glass Wonder」。ガラス細工のように繊細で、同時に不思議な輝きを持つ存在──そんな意味が込められた。
2. 海を渡った“未知数”の才能
翌年、栗毛の若駒は海を渡る。
春の太平洋を越え、到着したのは北海道早来町(現・安平町)の社台ファーム。
ケンタッキーとは違う、潮の匂いと牧草の甘い香りが混ざる風が吹く場所だった。
放牧地で見せる身のこなしはしなやかで、首の動きは軽く、視線はいつも遠くを見据えていた。
まだ調教も始まっていないのに、その眼には「走る理由」を知っているかのような静かな光があった。
3. 1997年──衝撃のデビューから2歳王者へ
1997年9月14日、札幌競馬場。
芝1200m、新馬戦。鞍上はベテラン的場均騎手。
ゲートが開く乾いた金属音と同時に、栗毛は飛び出した。
前半3ハロンを流れるように通過し、直線では馬なりのまま後続を1.5秒突き放す圧勝。
風を切る蹄音が、ゴール板を過ぎても耳に残るほどの衝撃だった。
続く京成杯3歳ステークス(GII)では1分33秒6の2歳コースレコードで快勝。
そして朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯FS、G1)では大外一気の末脚で再びレコード更新。
デビューから4戦4勝、2歳王者に君臨し、JRA最優秀3歳牡馬を受賞する。
4. 1998年春──骨折、そして長い沈黙
クラシック三冠の期待が高まる中、1998年初頭に右後脚第一指骨の骨折が判明。
厩舎に漂う乾いた藁の匂いが、その日だけは重く沈んで感じられた。
リハビリは北海道の放牧地で行われた。
新緑の匂いが漂う中での歩様訓練。
朝露で濡れた草を踏む音が、蹄を通してわずかに響く。
だが競馬ファンにとって、その夏は「怪物不在」の寂しさが残った。
5. 復帰と試練──本当の自分を探して
約1年ぶりの復帰戦、アルゼンチン共和国杯(GII)は5着。
続くジャパンカップ(G1)でも9着と精彩を欠いた。
パドックで見せる毛艶は戻っても、脚さばきにはまだ遠慮が感じられた。
「もう以前のグラスワンダーではない」──そんな声が、スポーツ紙や競馬番組を通してファンの耳に届く。
しかし、的場均騎手は諦めなかった。
「馬はまだ走る気を持っている」
その確信を胸に、冬の大一番へ挑む。
6. 1998年有馬記念──蘇る怪物
12月27日、中山競馬場。
冬の空気は張り詰め、吐く息は白い。
約16万人の観客が詰めかけ、場内は期待と不安の熱で揺れていた。
ゲートが開くと、中団の外目でじっと脚を溜める。
4コーナー、的場騎手の手が静かに動くと、グラスワンダーは一気に加速。
直線半ばでメジロブライト、ステイゴールドらを交わし、2分32秒6でゴール。
スタンドからは地鳴りのような歓声が巻き起こった。
この瞬間、「怪物」は再びファンの心を掴み取った。
7. 1999年──黄金の頂点
春は休養に充て、6月の宝塚記念(G1)で復帰。
良馬場2200m、後半1000mを57秒台で駆け抜け、スペシャルウィークに3馬身差の圧勝。
夏の阪神に熱風が吹き抜けた。
秋の天皇賞(秋)は3着に敗れたが、再び注目は有馬記念へ。
スペシャルウィークとの頂上決戦は、直線での壮絶な叩き合いに。
ゴール板を過ぎても結果は分からず、写真判定の末、わずか“鼻差”でグラスワンダーが勝利。
その差は約4センチ。
観客の歓声とため息が同時に響き、冬の空気に溶けていった。
8. 2000年──多彩な顔と静かな幕引き
2000年春、京王杯スプリングカップ(GII)で鮮やかに勝利。
安田記念(G1)では2着に入り、マイル適性も見せた。
しかし宝塚記念(G1)ではテイエムオペラオーの3着。
脚元への不安が再び影を落とす。
秋は休養のまま年末を迎え、有馬記念出走を断念。
15戦9勝(うちG1・4勝)という輝かしい戦績を残し、現役生活に幕を下ろした。
9. 種牡馬としての軌跡
引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬入り。
アーネストリー(宝塚記念)、スクリーンヒーロー(ジャパンカップ)、セイウンワンダー(朝日杯FS)などを輩出。
さらに孫世代からは、世界の芝マイル・中距離を席巻したモーリスが登場した。
父子四代G1制覇という血の物語は、21世紀の競馬史に深く刻まれている。
10. 晩年と永遠の記憶
功労馬として余生を送ったグラスワンダーは、来訪者に穏やかに鼻を寄せた。
陽光を浴びた栗毛はなお鮮やかで、目の奥には現役時代と同じ芯の強さが残っていた。
ファンが手を伸ばせば、彼は静かに応える。
その温もりは、どんな勝利よりも確かに人の心に刻まれる。
結び──“怪物”が私たちに残したもの
もし骨折がなければ、彼は三冠を手にしていたかもしれない。
もし1999年有馬記念が逆の結果だったら、別の歴史が刻まれたかもしれない。
けれど、そんな仮定を超えて、彼が走った日々は確かな現実として心に残っている。
芝の匂い、冬の冷たい空気、ゴール板を駆け抜ける蹄音──。
グラスワンダーは、今も私たちの記憶の中で、先頭を駆け抜けている。
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